聖ヨハネ・ボスコのプロフィール
ドン・ボスコの9才の夢
ドン・ボスコが、のちに語るように、
他の人のために働くという考えは、わずか5才の時に持つようになった。
9才の頃、見た夢は、その希望を実現させる方法を彼に教えるものであった。
夢の中で、彼は笑ったり、跳ね回ったり、 また、神をけなす 冒涜(ぼうとく)の言葉を吐いたりしている大勢の少年たちの中にいた。
彼は、不敬な言葉を吐く若者たちに 襲(おそ)いかかり「黙れ!」と叱ると、
従わせようとして、げんこつで殴り始めた。
そこへ、上品な紳士が現れ、
「げんこつではなく、柔和と親切によって彼らと友だちになりなさい」
と、ヨハネを諭(さと)した。
子どもたちは騒ぎをやめて、紳士のそばに近づいてきた。
その後のことを、ドン・ボスコはこう語っている。
「すると、紳士のそばに、裾(すそ)の長いマントを着た貴婦人が現れた。
子どもたちはもう姿を消して、その代わりに動物の大群が現れた。
中には猛獣もいた。
『これはあなたの働く畑です』と貴婦人は言った。
『謙遜で強く、たくましい人になりなさい。 この動物たちに起こるすべてのことを、私の子どもたちのために尽くしなさい』。
もう一度見ると、猛獣は小羊に変わっていた。
出来事の意味を尋(たず)ねると、
『やがて何もかもわかるでしょう』と、貴婦人は私の頭の上に手を置いて答えた」。
9才になったばかりの少年にとって、この夢は、十分内省の糧となった。
ドン・ボスコの事業のはじまり
1841年、神学専門学校に入学して間もなく,無原罪の聖母の祭日、12月8日であったが、 ドン・ボスコが香部屋(こうべや)でミサを立てる準備をしているところへ一人の少年がそっと忍び込んできた。
香部屋係が少年に、ミサの侍者ができるかと尋ねると、 「できない」という返事であった。
係は少年を乱暴に追い出し、悪口を浴びせながら手にしている棒で追い打ちをかけた。
これを見たドン・ボスコは心を痛め、香部屋係にその子は自分の友人であると言って、少年を呼び戻させた。
そして、彼をミサに誘った。少年は承諾(しょうだく)した。
ミサが終わってから、ドン・ボスコがいろいろ尋ねてみると、
少年はアステイ市出身の煉瓦(れんが)積み見習いで、両親は亡くなっており、 読み書きはできず、初聖体もまだ受けていないことが分かった。
教理を習ったこともなかった。
「今から始めようじゃないか」。
ドン・ボスコは少年に十字のしるしを切らせてから、 彼を創造された神について、人類の定めについて、ちょっとした話をした。
それからごく自然に、その聖母の祭日を記念して、司祭と少年はいっしょに 「恵みあふれる聖マリア」の祈りを唱えた。
ドン・ボスコはのちに断言している。
トリノにおける、また世界における彼の事業がその街の教会の片隅(すみ)で、 無学な煉瓦積み見習いの少年との対話をもって始まった、と。
サレジオ修道会の発足
1859年、ドン・ボスコは動乱の国で修道会を設立するために準備を進めていた。
第2次イタリア独立戦争が始まっていた。
ドン・ボスコが決定的な一歩を歩みだしたのは、1859年12月のことであった。
ある晩、ヴァルドッコの共働者たちはドン・ボスコの周りに集まった。
彼らは、ドン・ボスコの下で正式な修道会を発足させることで合意した。
その17名の大部分は、まだとても若い神学生であった。
ドン・ボスコが計画の要点を述べる間、皆は傾聴した。
評議会が会を統治するが、その名称は言うまでもなく、聖フランシスコ・サレジオ会である。
聖フランシスコ・サレジオのオラトリオから発展したのだから。
聖フランシスコ・サレジオは、ドン・ボスコの弟子たちが仰ぐべき師とされたのである。
サレジアン・シスターズの創立
彼は、聖フランシスコ・サレジオ会の活動を、女子の教育の分野にも広げることを考え始めた。
このような使徒職を行うためには、女性のグループがなければならない。
1871年、ある小教区の信心会にドン・ボスコは目を留めた。
彼は、その敬虔さと自己放棄の姿勢に尊敬の念を抱き、自分の計画に合うグループなのではないかと思うようになった。
隣(となり)のアクイ教区、モルネーゼ村の「無原罪の聖母信心会」の指導司祭ペスタリーノ神父は、
ドン・ボスコを心から信頼していた。
トリノのあるシスターの助けを借りて、ドン・ボスコは、この若い女性たちのために会憲の要綱(ようこう)を作成した。
ドン・ボスコの修道女会のメンバーは、「教会の前に真の修道者であり、国家の前に自由市民」であるとされた。
(小伝ドン・ボスコ)